【二次創作】葬送列車より愛をこめて

2025年4月16日水曜日

二次創作

t f B! P L
あなばけ|恋人陣営|WEB再録


 ぱちぱちと弾けながら赤い炎が燃え広がっていく。
 外では怒号とも歓声とも分からない、ひたすらに愚かな熱狂が渦巻いて、行き場を求めて、溢れていた。
 もはや期待はなく、この先に希望もない。無気力に壁に背を預けて、静かに目を閉じた。





 がたんごとんと低い音が聞こえる。小さく上下に振動する心地の良い揺れで、ヴォルフは目を覚ました。

「……ああ……マリア……どうか……あの子が……」

 前方からは囁くような声が聞こえる。釣られて目を向ければ、向かいの青い座席に座った老婆が、小さなロザリオを握りしめて、俯くように祈っていた。
 知らない老婆だった。そもそも、いったい、ここはどこなのか。
 ヴォルフは自分の身体を見下ろす。服はいつも屋敷で着ている執事服。どこも破れても汚れてもいない。
 どうやらヴォルフが背を預けて座っていたのも、向かいと同じ見た目の座席のようだった。恐らく本来ならば二人掛けなのだろう。背面と座面にはモワモワとした柔らかな青い織物が敷かれているが、椅子としての基盤は木材で作られているように見える。どこかレトロなボックスシートだ。

(ここは……汽車?)

 向かいの老婆の他にも聞こえてくる声はあった。老若男女さまざまな声だ。その中でも子供たちの楽しげに弾む声が一等よく響いていた。そんな子供たちと会話する大人の声も。
 彼等の声は右側後方から聞こえた。右側を見る。ヴォルフの座席から通路を挟んで、同じようなボックスシートの座席が並んでいた。
 声を発している者たち以外にも乗客はいるようだ。決して混んではいないが、まばらに座席は埋まっていた。

 さっと眺めた内装から考えても、どうやらヴォルフは汽車の中にいるようだった。
 その内装は全体的に焦げ茶色の木材で構成されていて、ずいぶんと古めかしいようなのに、まるで埃っぽさを感じない。
 左側には大きな窓。いかにも汽車らしい上げ下げ窓は、その木製の枠も相まって、どことなく重厚な雰囲気を醸し出していた。それでいて存外簡単に開閉が出来そうな作りである。
 ちらりと顔を向ければ、窓ガラスに映り込んだ、人間姿のヴォルフと目が合った。

 ヴォルフは普段こそ人間の姿をしているが、その正体はワーウルフである。
 かつては鏡を見る度に、きちんと人間の姿を取れているか、念入りに確認していたこともあった。
 しかし、ここ最近はそうでもない。ある事件を経て、おのれの正体を皆が明かした茨道家の屋敷では、もはや必要以上に気にする必要はなくなったからだ。

 ヴォルフは窓ガラスから視線を外す。おのれの姿越しに見えた窓の外は暗闇だった。恐らくは夜なのだろう。もしくはトンネルの中なのか。ともあれヴォルフは大した観察もせずに切り上げた。
 折角、こんなに人がいるのだ。訊いた方が手っ取り早い。
 どうしてかヴォルフには、この列車に乗っている経緯が全く思い出せなかった。決して記憶喪失などではないはずだ。それなのに、この状況に関係しそうな記憶が決定的に存在しない。
 ただ、いつも通り屋敷で過ごして眠りに付いた、それだけのはずなのだ。

 ヴォルフは内心困惑しながら、他の誰かに状況を尋ねようと立ち上がる。ただし、その相手は目の前の老婆以外の誰かであった。
 ヴォルフは長らく偏見を持たれる側として苦しんできた。だからこそ、なるべく妙な偏見は持たずにいたいと思っている。
 それでも老婆が握っている十字架を見ると、どうしても声を掛ける気にはなれなかったのだ。

 そうして立ち上がって見えた前方の座席に、ヴォルフは運命を見付ける。
 すなわち、この世の誰より脳細胞に強く焼き付けて世界が反転しようとも見間違うはずのない最愛の恋人ラミーカの姿が、そこにあった。
 となれば必然として、次の瞬間にはヴォルフは音も立てず彼の元に近付いていた。

「ラッ……」

 ここまでの困惑を振り切って、思わず、打って変わって嬉々とした声色になってしまったことは愛故の性である。こればかりは仕方ないだろう。
 しかし、ラミーカの向かいに見知らぬ少女が座っているのを視認して、瞬間、ヴォルフは言葉を止めた。

 ラミーカは人前でいちゃつくのが好きではない。それが全く見知らぬ人間の前ならば尚更だろう。そもそも自分たちが恋人同士であるという事実さえ、あの屋敷の外では隠しているのだ。
 そしてヴォルフはというと、そうとバレない丁度いい塩梅の態度を繕うことが、それほど得意ではなかった。とある探偵コンビに言われて気付かされたことである。
 しかし、こればかりはヴォルフの全身全霊からラミーカへの愛が溢れ出てしまうが故に、どうしようもないことなのだ。それを出すなと言うのは、例えるなら植物に太陽の下で光合成を止めろと言うようなものである。どうしようもないのである。

 それから極めてシンプルに、ラミーカの向かいの座席に知らない人間が座っているという事実に、極めてシンプルに嫉妬したので、ヴォルフは動きを止めた。
 ちなみにヴォルフを止めた原因の割合としては、この最後の理由が最も大きな比重を占める。

「? こんにちは。もしかしてお知り合いですか?」

 結局、ヴォルフが言葉を続けるより先に、ヴォルフに気付いた少女がラミーカに声を掛けた。
 ナチュラルな顔立ちに化粧の痕跡はない。その上でぱっちりと開いた瞳から、大人しくも明るい印象を受ける少女だった。
 見たまま人間ならば十代後半。あって二十代前半といったところか。

(つまり俺よりラミーカと歳が離れてる。つまり俺の方がラミーカに近い。つまり俺の方がラミーカとお似合い!)

 ふふんと反射的にドヤったことでヴォルフの嫉妬心は少し治まった。
 ラミーカにしてみれば大差ない年齢差でヴォルフが内心マウントを取っている間に、少女に声を掛けられたラミーカも顔を上げる。

 病的に白い肌に、長く伸ばされた金髪が相も変わらず似合っている美青年。ラミーカ。
 ヴォルフと共に住み込みで働いている屋敷では、普段、その髪を纏めてコックコートを着込んでいる彼だが、いまの彼は、ヴォルフが初めて見る質素な服を着ていた。
 もっとも、どんなに質素な服だって、ラミーカが着た瞬間に究極の芸術品の一部が如く変貌するのだが、それはそれとして。

(……俺が見たことない服?)

 これがもし、ラミーカのことでなかったならば、それは容易に通り過ぎて行ったことだろう。しかしラミーカのことだったので、その一点の違和感は、ヴォルフの思考に確かに引っ掛かったのだった。
 ずっと一緒に旅をしてきた。そして今は一緒に暮らしている。そんなヴォルフが見たことがない服を、はたしてラミーカが持っているのだろうか。
 そんな疑問を覚えながら、座ったまま無言でヴォルフを見上げていたラミーカを見下ろして。

 真っ直ぐ自分を見つめる恋人の可愛さに内心で照れたので、細かいことは置いて行かれた。

「あー、おう。そんなもんだ。な、ラミーカ」

 しかし他人の前である。さすがのヴォルフも、あからさまに態度に出したりはしない。
 ともあれと、ラミーカが口を開くより先に、ヴォルフは少女に向き直ると先制して言い訳をした。執事モードで行こうかとも一瞬だけ悩んだが、ここは屋敷内でもないのだ。そもそも、ここがどこだか分からないのだが。

 こんなとき、いつも自分たちの関係を上手く誤魔化して説明してくれるのがラミーカだった。ラミーカは他者に対して警戒や不信や嫌悪を態度に出さず、上辺だけでも友好的に接するのが上手い。
 もっとも、それは彼がこれまで長いこと偏見や差別を受けてきた経験から成るものだから、実の所、あまりヴォルフとしては喜ばしいものではなかった。
 だからこそヴォルフが先制して前面に立った。ラミーカはヴォルフをたびたび年下として扱うが、ヴォルフとて成長しているのだ。このくらいはヴォルフにもさせてほしい。

「……えっ」

 そんな当のラミーカはどこかぼうとしていて、なぜかヴォルフの発言に一拍を置いて驚いていたが。
 その動揺は、目の前の少女の耳にも届かないほど小さく零れた声であったが、ワーウルフであるヴォルフの耳には届いたのだった。そんなにヴォルフが説明役になるのは珍しかっただろうか。

「それは奇遇でしたね。……良いことか悪いことか分かりませんが」
「どこだか分かんねえ場所で知り合いに会えんのは幸運じゃね?」

 ヴォルフとラミーカが知り合いだと素直に信じたらしい少女は、何やら複雑そうな表情を浮かべた。
 それに返しながら当初の目的を思い出したヴォルフは、ラミーカに尋ねる。

「あ、そうだラミーカ。ここってどこだ? 俺、こんな汽車に乗った記憶なんてねえんだけど……」
「……それは……」
「……もしかして最後の記憶がないんですか?」
「あ? 最後? つーか、いつも通りフツーに寝たことしか覚えてねえんだよな」
「ああ、なるほど……。それなら確かに幸運かもしれません」

 ヴォルフの言葉で、少女は何かに納得したらしい。しかし幸運と言いながら、その声色には密やかな寂寥の気配があった。
 だが、ヴォルフがそれに疑問を感じるより早く、明るくも丁寧に少女が提案する。

「そうだ、この汽車のことなら、わたしが説明しますよ。ラミーカさんがおいでになる少し前までいらした方から教えてもらった話なのですが」
「お、そんじゃ頼むわ」

 ヴォルフは何気ない動作でラミーカの隣に座った。ヴォルフが余裕を持って座れるだけのスペースを作るように、ラミーカは僅かに身を引いた。
 ヴォルフはちらりとラミーカの顔を覗き見る。いつもと比べてラミーカの口数が随分と少ないが、どうにもラミーカもヴォルフと同じく、この状況に困惑しているらしい。

(それもそうか)

 二人がいた場所は同じだ。きっとヴォルフと同様に、ラミーカも眠っている間にこの場所に来ていたのだろう。
 ヴォルフにもラミーカにも気付かれず、寝ている二人を汽車に乗せるなど、『人間の常識』では考えにくいことだ。しかし、そういった『人間の常識』では測れない現象を起こせる者がこの世には存在することも、ヴォルフは知っている。
 なにせヴォルフ自身もそうなのだから。

「えーと、そうですね。まず……もう窓の外はご覧になりましたか?」
「見……そういやちゃんと見てはいな……」

 言いかけて、そういえばガラスに映る自分の姿しか殆ど見ていなかったことを思い出した。
 ヴォルフは窓際に座るラミーカ越しに、改めて窓の外を見る。ラミーカやヴォルフ、列車の内装を映す窓ガラスの暗闇、その先を見て。

 思わず、ヴォルフは身を乗り出すように窓に顔を寄せた。

「……すっげえ……! なんだこれ!?」

 すっかり暗闇だと思っていた窓の外では、広大な宙の中、無数の小さな光が輝いていた。
 それは銀河に集う星の輝き。これまで見てきた、どんな夜空より広大で。どんな夜空より明るい。異なる色をした星の光が宙の中にグラデーションを作り上げる。
 人里離れた土地で星を眺めてきたヴォルフが心から驚嘆するほどに、美しい光景だった。

「おいラミーカ見たか!? めちゃくちゃ綺麗だぞ!」

 あまりの美しさに自然と笑みを零しながら、ヴォルフは窓から顔を外してラミーカに振り向く。
 こんなにも美しい光景なのだ。ラミーカにも見てほしかった。

「え、あ、ああ。見ていた。……ここに貴様が来る前に」

 ヴォルフが咄嗟に身を乗り出したが為に、窓際に座っていたラミーカの顔は、先刻より至近距離にあった。
 なぜか歯切れの悪い、ラミーカは妙に動揺した様子だった。

「……? いやでもマジでこんなに夜空の見える拓けた場所が、……えっいやマジでどこだここ!?」

 ラミーカの様子に違和感を覚えるも、列車の走行に伴い変化する外の光景に目を奪われて、ヴォルフは惹かれるように窓の外を二度見する。そして圧倒的な違和感に至った。
 現在、ヴォルフとラミーカが住み込みで暮らしている茨道家の屋敷は、とある森の中にある。とてもではないが、これほど視界いっぱいに夜空が広がるような広大な平野は近場にはない。それを言うなら、そもそも汽車が通るような線路もなかったはずだが。
 というか、ここは日本なのだろうか。いったいヴォルフたちは、どこに連れてこられたのか……。

「銀河系の中を走り続ける魂の葬送列車」

 はっきりとした声で少女が言った。
 思いも寄らない言葉に、ヴォルフの思考が止まる。

「それがこの列車なのだと聞きました。けれど、全ての人がこの列車に乗るわけではありません。そして同じ時に死んだ人が乗り合わせるわけでも」

 通り過ぎていく星の軌跡を追うように、少女の瞳は窓の外に向いた。

「あの星の光と同じ。ずっと遠くに在る星だから、その光がわたしたちに届くには、たとえ光の速度でも時間がかかる。だから、いつだってわたしたちは過去の光を見ています。わたしたちが宙を見上げるとき、そこには過去と現在が同時に存在するのです」

 それはヴォルフも知っている話だった。けれど。

「この列車も、過去と現在、あるいは未来が同時に存在する場所。この列車に乗り合わせた、わたしたちは同じ場所にいるように見えるけれど。目の前の相手も、本当は何年も何十年も何百年も離れた時間にいるのかもしれない。……いたのかもしれない」

 そんな途方もなく広大な話が、姿かたちを変えて目の前に現れたとき、いったい、どんな反応をすればいいのだろうか。
 そもそもだ。あたかも当然のように放たれた言葉が、何よりヴォルフを困惑させていた。

「……魂の葬送……?」

 まるで聞き覚えがない。それなのに、その言葉の意味をヴォルフは取り違えなかった。
 だからこそ困惑して、ヴォルフは少女の言葉を繰り返す。

「ええ。だから確かに幸運なのだと思います。死んだことに気付かないほど、あなたの死は安寧に包まれていたのでしょう」
「────」
「……そうか……」

 ラミーカは納得したようで、小さく相槌を打つ。ヴォルフは絶句していた。
 つまり、おのれは死んだのか。どうしてかは分からないが、眠っている間に。すなわち隣にいるラミーカも。
 そんなことが起こり得るのか? あの誰もが正体を明かし合った屋敷の中で? ようやく二人に訪れた本当の平穏だったのに?
 そんな理不尽が、あっていいのか。

「……ええと、あの、だから! だから……それでも死は誰にでも訪れるものですから……。それが早いか遅いかで違いはあるけれど……。あなたの死は苦しいものではなかった。その上でご友人とも出会えた。この何より自由に宇宙を駆ける列車の中で! それは素晴らしいことなのだと思います! 死んだ後まで孤独じゃない人生なんて、きっと早々ないですから!」

「…………」

 驚きのあまり声を失ったヴォルフを、なんとか元気付けようとしたのだろう。たどたどしく言葉を続ける少女の態度は、誰が見ても取り繕っていることが見え透いた明るさだった。
 それでも、真実、ヴォルフを思い遣るが為の言葉だった。

 ヴォルフは少女を見る。この少女はヴォルフたちが知り合いだと知った時から気を遣っていた。見知らぬ他人に同情していた。
 少女の言葉が本当で、その見た目通りの年齢ならば、彼女こそヴォルフより幼くして死んだということだろうに。

「……おまえイイヤツだな……」
「えっありがとうございます……?」
「……そうだな。お前の言う通りだ。……はは、なんだよ、次は来世じゃなかったのか」

 小さく呟いた言葉は、きっと少女には届かなかっただろう。けれどラミーカには届いたはずだ。

「けど一緒なら、まあいっか」

 こんなに美しい宇宙の中を一緒に旅できるなら、むしろ来世を願うより幸福かもしれない。
 ヴォルフは無性に、隣に座るラミーカの手を握りたくなった。
 しかし、結局、留まった。

 最初に知り合いだと言って誤魔化した。だから目の前の少女はヴォルフたちの本当の関係を知らないのだ。
 きっと彼女は心の底から善良な人間なのだろう。それでも自分たちの関係をどう思うかは分からない。どんなに善良だって、それは無償の肯定には繋がらない。
 ヴォルフはこの少女に好ましさを感じているが──もちろん恋愛的な意味はいっさいなく──もしもラミーカとの関係を否定されたなら、その瞬間に否応なく彼女を嫌悪してしまうだろう。だからこそ知られたくなかった。
 ラミーカさえいてくれれば、それでいい。ヴォルフは心の底からそう思っているけれど、だからといって他の全てを嫌いたいわけではないのだ。

 隣からラミーカの視線を感じる。手を握れない代わりに、ヴォルフはニッと笑い掛けた。
 ラミーカは瞠目する。その瞳は僅かに揺れていた。
 小さく口が開かれる。

《まもなくたいようけいだいさんわくせいちきゅうをつうかします》

 しかし、ラミーカが言葉を発すより先に、どこからか車両全体に響き渡る車内アナウンスが聞こえた。
 咄嗟にヴォルフは顔を上げる。ひどく淡々として、まるで抑揚がない喋り方だった。

「太陽系第三惑星……地球」

 ラミーカが呟く。このアナウンスを聞くのも初めてではないのか、少女に驚いた様子はなかった。

「わたしたちは地球で生きてきたのに、この列車は地球から出発しているわけじゃないんですよね」
「……どうやって乗ってんだ?」
「さあ……。でも絶対に見た方が良いですよ。窓、開けますね」
「!? いや宇宙なら酸ッ……」

 動揺で見開かれたヴォルフの瞳は、次の瞬間、いっそうに見開かれた。
 少女によって引き上げられた窓ガラス。隣に座るラミーカも外を見遣る。
 遮るものが無くなり、いっそうに鮮明な色彩を以て視界に飛び込んでくる宇宙。星。

 その中で一際の存在感を見せる青と緑と白の惑星。

 その星は恒星ではない。だから眩い光を放ったりはしない。
 だけど無性に惹かれた。まるで、あの星に向かって無限の重力が働いているかのように。

 ヴォルフは人工衛星技術が発展した現代に生きてきた。だから地球の写真や動画なんて、これまで何度も目にしてきた。
 もはや見飽きるほど、よく見知った惑星だった。

 それなのに息を呑んだ。
 それなのに目を逸らせなかった。
 その視界の中で、ラミーカが深紅の瞳を大きく見開く。

 それは、これまで見てきた全ての中でも、いっとうに美しいと思える光景だった。

「……これが……」

 ラミーカが呟く。静かに吐き出された声は僅かに震えていて、ヴォルフには、それが感動に由来するものだと分かった。
 ヴォルフ自身も、そうであったからだ。

(……どこかに行きたいと思っていた。どこにでも行けると思っていた。ラミーカと一緒なら。ずっと遠く先で光る星を見上げながら。けど俺は、俺たちは、あの夜に見上げていた星に焦がれていたんじゃなくて……)

「……ああ、そうか、知らなかった。知らなかったんだ。いつも地上は掃き溜めの地獄だと思ってた。俺たちに地球を見下ろせるような翼はなかった。だから気付けなかったんだ。俺たちが地球を美しいと思えるなんて……」

「────」

 隣から息を呑む気配がした。窓から視線を外したラミーカがヴォルフを振り向く。
 けれどヴォルフは、未だに地球から目が逸らせなかった。

「ちなみに酸素などは問題ありません。わたしたち魂だけですからね」
「……すっげえ息震えるんだけど」
「大抵の現象は生前の錯覚ですよ。でも気持ちは分かります」

 じっと黙っていた少女もまた地球を見つめていた。先人らしく端的に説明する彼女だが、その声色には確かな郷愁が滲んでいた。
 列車は走行を続ける。少しずつ地球が離れていく。この列車は地球から出発しない。
 この列車は地球に停車しない。

「あの生まれ故郷を見る度に、思い出して、息が詰まるのです。わたしの魂は、どこまでも自由に、このまま、どこまでもいけるのに。わたしの身体は地球に残されて、冷たい土の下、ずっと、ひとりで埋まっているのです」

 いつの間にかラミーカの視線は少女に向いていた。ようやく地球から視線を外したヴォルフも、釣られて彼女の方を見る。
 離れていく地球を見遣る少女の瞳は、遺してきたものを憂いているようだった。

「それが、とても悲しいことに思えてならないのです。わたしたちは、ずっと一緒に生きてきたのに。最期の先、こんなに美しい宙をわたしだけが見ている」

 少女が目を伏せる。その瞳さえ星の光と同じ。ここにあるのは魂だけで、魂を失った身体は、あの惑星の地下で置き去りにされている。
 ヴォルフは再び地球を見遣った。あの星で生きていた人たちを思い出す。
 それからドジで物覚えが悪い一人の同僚の姿を思い描いた。

「寂しくなったら這い出てくんだろ」
「……え?」

 少女が顔を上げる。

「いまの俺たちだって魂だけらしいけど、こうして動けてるし。たぶん身体だけになっても動こうと思ったら動けんだろ。知らねーけど」

 目を見開いて少女はヴォルフを見る。なにを言っているのだと言わんばかりの目だ。けれど、それは否定ではなかった。
 なにを言っているのだと思いながら、それでも相手の話を聞こうとする者の目だった。
 ここに本物の彼女の瞳はない。星の光。それでも分かるのだ。こんなに分かり合えるのだ。
 ヴォルフは他人を否定しない者の目が好きだ。自分たちのことを理解してくれたら大好きだ。応援してくれたら最高だ。そしてラミーカを愛している。
 これが列車なら脱線事故を起こしていた。

「地球から見上げる宙だって、この光景に見劣りするもんじゃねえよ。そのとき隣に好きな奴でもいりゃ尚更な」

 ヴォルフは堂々と笑った。

「だから俺にとっちゃ今が最高だけど」

 隣に座るラミーカが無言でヴォルフを見る。
 その言葉の意味を少女が察すより先に、ヴォルフは宣言した。

「これ以上の最高も、これから、もっと積み重ねてくんだ。俺たちは永遠を生きるんだからな!」

 ふふんと鼻を鳴らしてヴォルフは足を組む。
 そもそも死んでますけど、だなんて野暮なことは言われなかった。
 少女は細めた目を伏せる。その表情はやはり寂しそうで、けれど嬉しそうにも見えた。
 そうであればいいと、どこかに祈っているようにも見えた。

「……かっこいいですね……」
「だろ。でも惚れんなよ? 残念ながら恋人がいるんだ」
「すみません正直に言っていいですか!? あなたに先立たれた恋人さん可哀想じゃないですか……! なんでそんな呑気なこと言ってるんですか!」
「あっははははは!」

 少女の率直な反応に、不覚にもヴォルフは爆笑した。慌てて声を荒げる少女の姿は、これまで見てきた中で、いちばん年相応で自然なさまに思えた。
 もっとも当の恋人は隣にいるので、ヴォルフが先立ったかと言えば違うのだが。

「どうして笑うんですかぁ!? だから今が最高なんて……、……?」

 ぱちくりと途中で言葉を止めた少女が瞳を瞬かせる。少女は思考を整理するようにヴォルフの顔を見て、それから隣に座るラミーカを見た。

(あ、やっべ、かっこつけすぎた)

 持ち上げていた頬が引き攣る。恋人バレしたかもしれねえ、俺がかっこよすぎたばかりに。
 さてどうしたものか、首の後ろを搔きながら、ヴォルフは口を開いた。

「あなたきっぷをもっていないです」

「──あ?」
「えっ」
「…………」

 ボックスシートに挟まれた通路。通路側に座るヴォルフの横。
 いつの間にか、そこに車掌の制服を着込んだ存在が立っていた。
 それは人間の子供のような背丈で、あたかも人間の子供のような形状をしていた。
 けれど制服に覆われていない身体のパーツは真っ黒で、その頭部にあるべき目や口は、なにもなかった。
 なにもないのに、それは喋っていた。ひどく淡々として抑揚のない、車内アナウンスと同じ声。
 それはヴォルフを見ていた。瞳もないのに、感じる視線。

 極めて端的に言ってしまえば、それはばけものであった。
 しかしヴォルフは、これとよく似た存在を知っている。

「……おまえ……」
「待って待って! うそ、切符、持ってないんですか!?」

 信じられないと声を荒げて、少女が立ち上がる。
 この車掌もどきにヴォルフは興味があったのだが、その少女の様子に、よほど大事なものなのかと首を傾げた。

「持ってないっつーか、そもそも買ってねえけど」
「あ、いえ別に買うものではなくて、この列車に乗った人なら持っている……たぶん目が覚めた時に握っていたはずなんですけど……」
「たまにいますきっぷをもっていないのにのってしまうひと」

 それは句読点もなく淡々と言う。こんなに抑揚も句読点もない喋り方では、どこの国の言語でも聞き取りにくいだろうに……。

(……こいつ、いま、どこの言語で喋ってた? いや、そもそも、こいつだけじゃなくて……)

 はたと気付いたそれに、ちらりとヴォルフは視線だけをラミーカに向ける。ラミーカはじっと車掌もどきを観察しているようだった。
 ひょっとして。ヴォルフの脳内で、これまでの違和感のピースが次々と嵌っていく。
 そして導き出される結論。

「…………」

 しかし、あえてヴォルフは何も言わなかった。

「……あー、そういや席を移動してんだ。もしかしたら元の座席にあるかも……」
「いいえあなたはきっぷをもっていないです」

 ふと思い出したヴォルフは立ち上がって、向かいに老婆がいた最初の座席を見てこようと、ボックスシートから出る。
 しかし、車掌もどきから返ってきたのは迷う隙もない断言だった。

「きっぷをもっていないあなたはどこにものせていけませんもとのばしょにおろします」
「はあ!? なんだよそれ! こっちは勝手に乗せられてんだぞ元の場所って……」

「この列車の切符を持っていないってことは、まだ生きてるってことです……!」

 声を荒げたヴォルフを抑えて、少女が叫んだ。
 ヴォルフは目を見開いて少女を振り向く。少女は着ている服の胸元を握り締めて、同じように見開いた瞳でヴォルフを見ていた。
 どくんどくんと、ヴォルフの心臓が鼓動が大きくなる。

「……どこだよ元の場所って……」
「たいようけいだいさんわくせいちきゅうあなたがさいごにいたばしょです」
「いや待てそれなら俺だけじゃなくてラミーカも……!」
「これはきそくです」

 車掌もどきが、その黒い腕を物理的に伸ばしてヴォルフに触れる。ぎょっとして飛び退こうとするも、なぜか脚が動かなかった。
 ぐわんと脳を大きく揺さぶられるような感覚がする。しかし不思議と吐き気はなく、その代わりに、あらゆる感覚がブレていく。
 それと同時にヴォルフは何の確証もなく確信した。もう間もなくヴォルフはこの車内からいなくなる。
 そして戻るのだ。太陽系第三惑星地球日本、人間とばけものが共に暮らす茨道家の屋敷に。
 生きて、戻る。

「だッから急すぎんだろ余韻とか惜別とか知らねえのかだぁあクソ! ラミーカ!」

 視覚が揺れる中、ヴォルフは最後にラミーカを振り向く。ラミーカは目を瞠って、ただヴォルフを見ていた。
 ラミーカは何も言わない。いまのヴォルフには、その理由が分かっている。

 知らない服。ラミーカの名前を呼んだ時の動揺。隣に座った時の身を引く動作。口数の量。ヴォルフを観察する無言の瞳。存在しない言語の壁。不老不死の吸血鬼。
 この列車は、過去と現在、あるいは未来が同時に存在する場所。

 ここにいたのがラミーカでなければ、きっと誰だって気付いただろう。けれどラミーカだったからヴォルフは気付けた。
 だからこそ何も言う必要なんてなかった。だからこそ何も伝える必要なんてなかった。
 やがて至る。だからヴォルフはラミーカの名前を呼べる。
 だけど言いたくなってしまった。だって仕方なかった!
 だって、どうしようもなくヴォルフの全身全霊からはラミーカへの愛が溢れ出てしまうのだ!

「──『いま』、俺たちは最高に幸せだぜ!」

**


 そうして黒髪の青年は姿を消した。最後に彼が立って居た場所には、もはや何の痕跡もない。
 同じ車両に乗り合わせた周囲の乗客も、こちらの様子を気にしていたようだった。
 随分と騒いでしまった所為だろう。後方の座席からは子供がふたり顔を出している。

「……あっという間にいなくなってしまいましたね」
「そうだな」

 少しだけ悩んだあと、ラミーカは微笑んで子供たちに手を振った。子供たちはパッと目を輝かせて、ラミーカに手を振り返した。

 目が覚めた時、いつの間にか掌の中で握っていた切符を、ラミーカは車掌に差し出す。

「これでいいのか」
「あなたのきっぷはめずらしいです」

 あの乗り間違えた青年のことも、この車掌は既に気にしていないらしい。
 車掌はラミーカから切符を受け取って、機械的に業務をこなす。持っていた鋏で切り込みを入れて、淡々と続けた。

「どこにでもいけますもとのばしょにもどこにでも」
「……そうか」

 いつの間にか乗っていた列車の中で、ラミーカは窓の外の光景をぼんやりと眺めていた。
 向かいに座っていた少女がラミーカに話しかけたそうにしているのには気付いていた。けれど気付いていない振りをして。

 そんな時に現れたのが、見知らぬ黒髪の青年だった。
 その青年が、あまりに親しげに、そして自然にラミーカの名を呼ぶ。
 ラミーカは驚いた。しかし誰だとも言えない。言えば、その何故を明かす為に青年と言葉を交わす必要が出てしまうだろう。
 この列車の中で目覚める前のことを、ラミーカは鮮明に覚えている。だからこそラミーカは人間と喋る気になれなかった。
 幸いにも青年は向かいに座る少女と話し込んで、知り合いと言う割に、さほど積極的にはラミーカに話し掛けてこなかった。
 ようやく青年の正体に予想が付いたのは、少女の説明を聞いたあとだ。

『この列車も、過去と現在、あるいは未来が同時に存在する場所。この列車に乗り合わせた、わたしたちは同じ場所にいるように見えるけれど。目の前の相手も、本当は何年も何十年も何百年も離れた時間にいるのかもしれない。……いたのかもしれない』

 ラミーカの正体は不老不死の吸血鬼である。
 かつて今現在の姿になった時から、ずっとラミーカの見た目は本質的に変わっていない。
 ゆえに青年には気付けなかったのだろう。ここにいるラミーカが、青年と同じ時代の存在ではないことに。

 その青年は、随分と質の良さそうな服を着ていた。ラミーカも覚えていないほど過去か未来かの二択であれば、恐らく彼は未来の人間だ。
 しかし、それはつまり、ラミーカが今ここでは死なないことを暗示している。
 けれど、まあ、そんなこともあるだろう。
 あの程度では死ななかった。それだけの話だと思っていた。

 無数の星が煌めく窓の外の光景を見て、子供のように目を輝かせて笑った。美しいと感じた光景を、真っ先にラミーカにも見せようとした青年。

『……ああ、そうか、知らなかった。知らなかったんだ。いつも地上は掃き溜めの地獄だと思ってた。俺たちに地球を見下ろせるような翼はなかった。だから気付けなかったんだ。俺たちが地球を美しいと思えるなんて……』

 あの地球を見た彼が呟いた時、ラミーカは思わず振り向いて青年を凝視した。
 大きく見開かれた青年の漆黒の瞳には、いっとうに美しい青の惑星が映り込んでいた。

「生きて……元の場所で降りる場合はどうすればいいんだ」
「そのきっぷをもっているあなたならどこにもていしゃしていないときにおりるだけです」
「そんなに自由でいいのか……」

 呆れながらもラミーカは立ち上がる。おのれの業務を終えた車掌はそれきりで、音も立てずに隣の車両へ向かっていった。
 残されたのは名前も知らない少女だけ。

「あまり話せなくて悪かったな」
「いえ! いいんです。ラミーカさんがわたしの前に座ってくれたから、あの人が来て、色んなお話ができたのです。それで、そんなお二人ともが生きて地球に戻れるなんて」

 ひとりだけ取り残されてしまうにも拘わらず、少女の表情は本当に明るかった。

「えへへ、わたし、本当に嬉しいんです。だって、こんな奇跡を見てしまったら。あの地球で眠る、わたしの半身が、いつか幸せになれる奇跡だって、ずっと信じられちゃうじゃないですか!」

 思わずラミーカも笑った。
 それは到底『人間の常識』では考えられない話だ。たとえ『人間の常識』では測れない現象が存在するとしても、それでも本当に奇跡のような話だった。
 けれど不思議と信じたい気持ちになった。

「どうやら未来で出会うらしい友人が随分と世話になった」
「えっ……ええ!?」

**


 最後まで少女には知る由もなかった爆弾を落として、ラミーカと呼ばれた青年がドアに向かって歩いていく。
 慌てて少女は立ち上がる。もしかしたら友達ではなくて──そう言いかけて、やっぱり野暮だと止めた。

「どうか愛に満ちた生涯を!」

 少女は笑ってラミーカを見送る。
 あっという間に消えてしまった青年には伝えられなかった別れの言葉を、今度はきちんと伝えられた。

**


 届いた声にラミーカは振り返る。列車のドアの前、まさに開けようとした所だった。
 ラミーカは片手をあげて、その祝福を受け止める。そうして少女からも目を離した先で。

 ボックスシートから飛び出すように立ち上がって、ラミーカを凝視する老婆がいた。

「……ぁ……ぁぁ……」

 まだ鮮明に記憶に残る、その老婆の姿に、ラミーカは思わず硬直する。
 これ以上ないほど老婆は大きく目を見開いて、その胸元には握りしめられたロザリオがある。はくはくと中途半端に開かれた口元が震える。声にはなっていなかった。
 それでもラミーカには伝わった。揺らぐ瞳が、彼女の実直な感情を、ありありと伝えてきたからだ。
 それは驚愕だった。それは後悔だった。それは心配だった。それは安堵だった。それは希望だった。
 その十字架が自分自身を守る為ではなく、ただの赤の他人の無事を祈る為に握られていたことに、ここに至って、初めてラミーカは気付いた。

「…………」

 けれど、こればかりは。どうしようもなかった。
 きっと。どうしようもなく遅かったのだ。
 だからラミーカは少しだけ悩んで、そして、ついぞ何も言わずに背を向けた。

 手動のドアを開ければ、一面の宇宙が広がる。当然、このまま列車を降りれば足元には何もない。
 しかしラミーカの脚に躊躇はなかった。
 ゆらりと揺蕩って、ラミーカは宇宙の中に落ちていく。その遥か上空を、死者の為の葬送列車が駆けていく。

 あの何より自由に宇宙を駆ける葬送列車が、いつか、あの老婆の魂さえ癒してくれたら良いと思った。






 ぱちぱちと弾けながら赤い炎が燃え広がっていく。
 とある村のはずれにある小屋の中。外から火を放たれて、煙に包まれた小部屋の中で、ラミーカは目を覚ました。

「…………」

 部屋の中には黒い煙が充満している。着ていた服は燃えていた。ラミーカの肌にも多数の火傷痕が付いている。
 それでも生きていた。

 もはや立ち上がる気力もなかった脚で、ラミーカは立ち上がる。
 どうしてかは自分でも分からなかった。
 外では怒号とも歓声とも分からない、ひたすらに愚かな熱狂が渦巻いて、行き場を求めて、溢れていた。
 ラミーカは身を隠しながら窓の外を盗み見る。この小屋に火を放った当人である男。それを正義と信じて疑わない村人たち。それから数人の男性に囲まれた一人の老婆が、跪いて小さなロザリオを握り締めていた。

 ずっと行き場なく放浪していた赤の他人であるラミーカに声をかけて、この村はずれの木陰の小屋に泊めてくれた、親切な老婆。
 久し振りに食べた温かな食事。暖かな寝床。太陽を遮る屋根。他人との会話。平穏の時間。
 しかし、武器を手に襲来してきた男たちの手によって、突如、そんな泡沫の平穏は崩れ去った。
 男たちの背後には、小さなロザリオを握る老婆がいた。彼女は老いた身体を更に小さくして、まるで縋り付くように両の手でロザリオを握り締める。ひどく怯えた瞳がラミーカを見た。
 ああ、結局、こんなものか。ラミーカは失望した。
 火を放たれる前に垣間見た、それがラミーカと老婆が目を合わせた最後だった。

 ラミーカは何も言わずに外に背を向ける。焚かれた炎による光源はあるが、彼らの襲撃は幸運にも、あるいは愚かにも夜だった。
 あの村人たちはラミーカの正体にまでは気付いていないのか。吸血鬼であるラミーカならば、恐らく夜闇に紛れて逃げ出せるだろう。
 けれど、その前に衣服は頂戴していこう。できれば体力を回復する為に血もいただきたいものだが、そこまでの余裕はあるかどうか。
 ラミーカは炎の中を歩き出す。肌を焼く炎の熱さに顔を顰めるが、容赦なく全身を焼き溶かす太陽の光と比べたら、まるで優しいものだ。

「おお、いまや化け物は聖なる炎の中! そして化け物を招いた魔女めは、このわたくしが!」

 やがてラミーカは人知れず小屋の中から姿を消す。
 背後で聞こえた歓声の意味を、ラミーカが知ることはない。

 いつか幼稚さを愛らしく、愚劣さを愛おしく感じる日が来るなんて、とてもじゃないがラミーカは思っていない。
 失望を重ねて、孤独に耐える。たとえ数刻の安寧があろうとも。やがては途方に暮れるような地獄に戻るだけだと分かっている。
 この日に死ななかったことを、いつかラミーカは後悔するのかもしれない。
 それなのに、どこからか湧き上がる期待に似た衝動が、ラミーカの脚を動かしていた。無数の小さな光が輝く宇宙の下で、ラミーカの顔を持ち上げていた。

 きっと、この日に死ななかったことを良かったと思う日が来る。
 そんな御伽噺のような奇跡を、どうしてか不思議と信じたい気持ちになった。

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